わたしのフィリピン青年海外協力隊日誌

2018年11月~2020年11月の二年間、JICA海外青年協力隊、コミュニティ開発隊員としてサマール島に派遣。バセイ町役場農業課に勤務。地域のおばちゃんたちと生計向上プロジェクトに奮闘中。現地弁、ワライワライ語にも奮闘中。

新しいカウンターパートのことがわたしは大好きなはなし

こんにちは。お久しぶりです。

今日は私の職場でのカウンターパートについて。

カウンターパートとは、わたしとペアになって一緒に活動をする人のことを言います(以後CPと表記)。

 

そもそもCPは赴任前から決められており、現地受け入れ先がCPとしてスタッフを提示する仕組みになっている。私が赴任した2018年12月時点からのCPは、60歳、「眠い・疲れた・忙しい(フェイスブックのチェックに)」の三拍子が口癖の、いい人なのだけれども忘れっぽくて自主性に乏しいLazyおばちゃん。正直私が相性のいい人たちとは正反対の性格だったので、なかなか毎日のいらいらポイントも多くて、私のメンタルコントロールも大変だった。

2019年10月、活動中間報告会の前時期に、勤務先の農業課オフィスに新しい職員がJob Order(週2勤務の非正規雇用)で入ってきた。彼女は30代後半で若く、目がきらきらしていてやる気があり優秀、日本人のように驚くほど勤勉な、村出身の2児のママ(以後彼女をアテと表記。アテとはフィリピノ語でお姉さんという意味、私は彼女をいつもアテと呼んでいる)。前CPの後任で採用された彼女と数週間一緒に働くうちに、彼女の一生懸命さに惹かれて、私は勝手にアテをCPにすることにした。首都マニラでの中間報告会にも、彼女を連れていきたいことを農業課所長・JICAに相談し、結果正式なCPになった。

 

そこからかれこれ半年間、アテは、私にとって心の支えであり最も信頼するフィリピン人一人である。

2019年10月彼女がCPになって以降、仕事面・プライベート面でも大きな変化が沢山あった。

 

  • 村に出る機会が増えた。

私の活動、農業・コミュニティ開発の活動では、村に足を運んで、村のおばちゃんおじちゃんと話して畑を見て海に行ってなんぼ。活動的は彼女は、私が誘わなくても「この村に行こう!〇〇をやらなくちゃ!」と声を掛けてくれ、村に出向く機会は2~3倍に増えた。彼女は一緒に決めたスケジュールを絶対に忘れない。私は現場での活動が大好きであるので、仕事がとっても楽しくなった。アジア農業の現場を自分の足・目で見たい、ということがボランティアに応募した一つの理由でもある。現場での活動の増加に従って、活動のひとつひとつが見違えるようにスムーズに進むようになった。村の人たちが私を覚えてくれ、もっと心を開いてくれるようになった。村にいくと、おばちゃん、おじちゃん、子供たちが寄ってきてくれ、ユウコユウコ!元気?これ食べてきな!飲んできな!と声を掛けてくれて、とても嬉しい。

 

  • 村の住民たちの行っていること、彼らの気持ちがより理解できるようになった。

アテは懲りずに、私に対して丁寧に何度も翻訳してくれる。私のワライワライ語は日常会話では機能するものの、仕事の話、おばちゃんたちが本音を早口で話し出したときは、ほとんど会話にならない。フィリピン人の多くは英語が非常に流暢だが、現地のおばちゃんたちは英語は理解できても話すのが苦手。アテは村出身で、英語がとても得意なわけではないが、「わたしの英語へたくそでごめんね」と言いながら、私の”理解できません”顔を見ると一生懸命訳してくれて涙がでそうである。また、彼女はおばちゃんたちと距離が近くコミュニケーションをとるのが得意。その理由として、彼女自身が村出身かつ女性組合組合長を兼任していること、さらには彼女自身が11人兄弟のど真ん中であり体裁が得意分野だからとの背景がある。

 

  • 私の心の支えができた。

真剣に活動のことを考えてくれ、私の活動の悩みを聞いてくれる。一緒に、自分の頭で考えて、悩んで、解決策を提示してくれる。そもそも「考える」という習慣を持たないフィリピン人は、特に農村部で多いように見えるため、村出身の彼女のそんな態度は驚きと感動だった。アテが私に頻繁に言う言葉は、「ユウコは結婚せずに仕事と勉強とやりたいことをやっていて本当に素敵だね!まだ若いんだから色んな所に旅をして経験するべきだし、ユウコのDecisionは間違っていないよ!」である。泣けてくる。今まで任地でよく言われたこと、旅行いけてお金持ちだよね、なんで結婚しないの?等とは正反対だ。そんな風に私に話す、任地バセイの人には誰一人出会ったことがなかったし、同時に、このような環境で育ってなぜこんなにリベラルな視点を持っていられるのだろう?とずっと疑問に思っていた。

 

 

そして先週のある日に、アテとランチをしていたとき。

アテが大盛の白米に少しの塩辛を乗せてご飯を食べようとした際に、「これは私の大好きなおかずだよ!食べる?私は幼いときとっても貧しかったからね、こうやって毎日三食塩辛ごはん食べてたんだよ、食事食べれないこともあったけどね。」と目をうるうるさせながら話始めたのが発端で、気づけば2時間話しており、ここで、初めて彼女の育った背景を知ることになった。

 

アテは、私の任地サマール島の隣、レイテ島の山間部出身。(アクセスの悪さから一般的に沿岸部より山間部のほうが所得が低い。)父は昼は農業、夜はモーターバイクの運転手(フィリピンでの最も一般的な交通手段はモーターバイクである)、母は専業主婦。兄弟は11人の6番目に生まれた。カトリックのゴムなしセックスのために、毎年の子供が生まれて11人である。アテは「She loves making childrenだからねあはは、だから貧しくなるのも当然よね」と笑っていた。もちろん11人を農夫のパパだけで賄うのは苦しく、白米に塩辛の食事は常、白米に水に浸し塩をかけて食べることも多かった。冷おかゆ的なかんじだろうか。ご飯を食べられなくてお腹が空きすぎて泣いていたことも未だに覚えていると言う。(※前にも述べたと思うが、フィリピンの農村部では一日三食、おかずに肉や魚を食べれたら贅沢、野菜が基本、お金が無いときは塩辛と大量の白米でお腹を満たすのが常である。白米はフィリピン人の命、米がなかったらまじでやばい、というふうである。)彼女の思い出す幼い頃の強い記憶は、自分のパンツを買ってもらえなかったこと(パンツは贅沢、直接ズボンを穿いたらOK)、貰い物の靴下が片方しかなく、かつかかとに大きい穴が開いていたけど、毎日帰宅後自分で洗濯して毎日履いてたこと、唯一持つ一着の制服にも大きい穴が開いていたこと、だという。それでも、「子供が多いのは問題だったけど、パパママが私達をお世話してくれたから恨めないし心から感謝しているよ」なのである。

中・高校生になったアテは、厳しい生活の経験と親を支えたい気持ちが強く、自分で小銭稼ぎを始める。コミュニケーションが得意なアテなので、隣人宅やおかず屋さん、学校の図書館に顔を何度も出し覚えてもらい、「お皿洗い・洗濯を代わりにやらせてもらえませんか?」「図書館の掃き掃除とか本の整理は誰がやっているの?」というふうに仕事を探し、一日30ペソ(約60円)ほどを稼いた。稼いだお金は親や弟妹たちに渡していた。

高校を卒業したアテは、”勉強することが将来の生活の支えになる、大学を卒業したい!”という強い意志があったものの、金銭面厳しく断念。首都マニラにてベビーシッターの仕事に就く。それでも大学に行きたかったので、雇用主に働きながらナイトスクールに通わせてほしいと依頼するが、1年待つように説得される。1年後に再度交渉をするものの、雇用主夫婦の浮気問題のごたごたで解雇されてしまう。

実家に戻ったアテは、たまたま、1年19ペソ(約40円)で通える3年の漁業専門短大を発見。そもそも大学では、年何十回渡る”プロジェクト”と呼ばれるコース受講の際に毎コース支払いが必要である。農業漁業系学部はこの”プロジェクト”がないため、一般的に、大学のコース選びの際に、農村部の学生たちに選ばれやすい学科である。アテは先生になる夢があったものの学費高く、大学就学・卒業の目標を優先しこの漁業専門短大に入学。中高時と同じように得意のコネ作りで自分の力で小銭収入口を探し、昼休みにはおかず屋さんで皿洗い、午後の授業後には図書館で掃除・図書整理を行い、毎日65ペソ(約130円)を稼いだ。お昼はおかず屋さんでまかないを貰い、自分の学費と交通費は自分のお金から、残りは同じように家族に渡した。両親は一生懸命で働きものはアテを何回も褒め、ご近所には「この子がうちの娘でね、家族をいつも助けてくれる優しい子なんだよ!」と嬉しそうに自慢していたという。アテは両親にも、「私が稼いでパパママの家を建ててあげるからね!」と約束した。彼女たちが住んでいた家は、葉っぱを乾燥させたものを編んでできた、小さなほったてネイティブハウスだったからだ。そして、アテは無事短大を卒業。ちなみに兄弟11人中大学・短大を卒業できたのは3人のみ、残り8人はマニラでの出稼ぎや、すぐ結婚をした。

大学を卒業後20代前半で、彼女は瞬く間に恋に落ちてしまい、そのまま結婚をした。旦那はサマール島の私の任地の村出身で、彼女はサマール島に引っ越すことになる。(ちなみに旦那は現在村長を務め、任地でわたしにかなり良くしてくれるとっても優しい人だ。)結婚後すぐ妊娠し、仕事には就かなかった。初めの夫婦生活は喧嘩も多く、生活も厳しく、身体も心も大変だった。食べ物に困ったことも多く、今より半分のサイズくらいガリガリになってしまい、隣人にお米だけお願いして貰ったことも多かった。すれ違いの住人に、「あの子大学出てるのに仕事もしないで食べるものも無くてあんなにガリガリなんだってよ~」と聞こえる裏口を言われたこともある。悔しくてたまらなかったけど我慢した。大学を出たのにすぐ結婚してしまったこと、親に家を作ると約束したのに果たせなかったこと、を何度も後悔して、今でもベストな選択をしたのか悩むことが多いという。

そして結婚して何十年経った今、夫婦仲も問題なく、2児の子供がいる。実は元々3児おり、第一子は小学校の時にデング熱で亡くしている(娘が生きていたら今頃高校生なのよ、と寂しそうに話していた)。

数年前に水産省で非正規で働いていた際は、隣人に、「あなたは水産省か・ら・、仕事もらっただけだよね」と言われ「違うよ、わ・た・しが、仕事を見つけたんだよ」と言い返す強さもある。水産省の仕事は安定していたものの、村からやや遠く子供も幼いこと、より地域に貢献したいとの気持ちから仕事を辞め、村の自治会員になる。村からの信頼も厚い。

親の家は、アテの兄が代わりに建てた。アテは現在農業課非正規雇用でもらっている月3,000ペソ(約6000円)のうち、500~1000ペソを毎月両親に渡している。

びっくりするほど意識の高いアテ。多兄弟で生活が厳しかったことから、子供は2~3人まで、と夫婦で話し合って決めている。カトリックのフィリピンでは、今でも人口はピラミッド型、東南アジアのなかでも有数の(旧CPの言葉を借りると)ベイビーファクトリーであり、2017年の国民平均年齢は23.5歳、2019年の合計特殊出生率(女性一人当たりの出生)は2.5人、私の周りの農村部住民では8~10人越えは普通である。アテは避妊ピルも使っている。フィリピンではピルがタダで処方してもらえるが、農村部でピル使用はなかなか聞かない。(※日本でもタダになるべきだしもっと皆使用するべきと思う。)中学生の娘にも早すぎるセックスは将来の可能性を狭めてしまうこと、レイプなどに要気を付けること、しっかり性教育を行っている。もちろんカトリックのフィリピンの親たちはなかなかやらないことだ。今の子供たちは学校をさぼりがちの子が多いが、勉強がどれだけ助けになるかもよく話すらしい。

今の仕事は非正規雇用だが、子供の成長に伴って金銭サポートがより必要なので、現在、役所に正規雇用のアプライをしている。「どうにかちゃんとした収入を自分の手で稼げるよう、非正規で(毎日オフィスに行く必要がないとしても)毎日一生懸命働いて、その姿を見てもらって採用してもらいたいし、地域にも貢献したい。毎日しっかり働いて、毎日神様にお祈りしてるよ。」と言っていた。

と、話し終わってからアテは泣いてしまったのだけど。この壮絶な葛藤の人生を、一生懸命話してくれたことが嬉しかったし、わたしもガチ泣きしそうになった。

フィリピン人、東南アジア人、ラテン人はもーっとEasy Goingなのが常だが、彼女の一生懸命さと保守的でない考えはここから来て、だから私の人生の歩み方を応援してくれるんだ、と分かったのである。

保守コミュニティでの、女性であること、卒業=結婚、結婚=妊娠、妊娠=専業主婦であることに価値が置かれることの怖さも見えた。

 

と、アテに人生の学びを得たのでした。彼女のためにも、彼女に胸を張って自慢してあげられるようにも、私も一生懸命強く生きないといけないと胸を打たれた先週。

 

皆さんにも、海越えて離れたフィリピンの、ローカルの、とある大好きなの人の人生について、少し知ってもらえたら嬉しいです。

 

 

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以上。