わたしのフィリピン青年海外協力隊日誌

2018年11月~2020年11月の二年間、JICA海外青年協力隊、コミュニティ開発隊員としてサマール島に派遣。バセイ町役場農業課に勤務。地域のおばちゃんたちと生計向上プロジェクトに奮闘中。現地弁、ワライワライ語にも奮闘中。

新しいカウンターパートのことがわたしは大好きなはなし

こんにちは。お久しぶりです。

今日は私の職場でのカウンターパートについて。

カウンターパートとは、わたしとペアになって一緒に活動をする人のことを言います(以後CPと表記)。

 

そもそもCPは赴任前から決められており、現地受け入れ先がCPとしてスタッフを提示する仕組みになっている。私が赴任した2018年12月時点からのCPは、60歳、「眠い・疲れた・忙しい(フェイスブックのチェックに)」の三拍子が口癖の、いい人なのだけれども忘れっぽくて自主性に乏しいLazyおばちゃん。正直私が相性のいい人たちとは正反対の性格だったので、なかなか毎日のいらいらポイントも多くて、私のメンタルコントロールも大変だった。

2019年10月、活動中間報告会の前時期に、勤務先の農業課オフィスに新しい職員がJob Order(週2勤務の非正規雇用)で入ってきた。彼女は30代後半で若く、目がきらきらしていてやる気があり優秀、日本人のように驚くほど勤勉な、村出身の2児のママ(以後彼女をアテと表記。アテとはフィリピノ語でお姉さんという意味、私は彼女をいつもアテと呼んでいる)。前CPの後任で採用された彼女と数週間一緒に働くうちに、彼女の一生懸命さに惹かれて、私は勝手にアテをCPにすることにした。首都マニラでの中間報告会にも、彼女を連れていきたいことを農業課所長・JICAに相談し、結果正式なCPになった。

 

そこからかれこれ半年間、アテは、私にとって心の支えであり最も信頼するフィリピン人一人である。

2019年10月彼女がCPになって以降、仕事面・プライベート面でも大きな変化が沢山あった。

 

  • 村に出る機会が増えた。

私の活動、農業・コミュニティ開発の活動では、村に足を運んで、村のおばちゃんおじちゃんと話して畑を見て海に行ってなんぼ。活動的は彼女は、私が誘わなくても「この村に行こう!〇〇をやらなくちゃ!」と声を掛けてくれ、村に出向く機会は2~3倍に増えた。彼女は一緒に決めたスケジュールを絶対に忘れない。私は現場での活動が大好きであるので、仕事がとっても楽しくなった。アジア農業の現場を自分の足・目で見たい、ということがボランティアに応募した一つの理由でもある。現場での活動の増加に従って、活動のひとつひとつが見違えるようにスムーズに進むようになった。村の人たちが私を覚えてくれ、もっと心を開いてくれるようになった。村にいくと、おばちゃん、おじちゃん、子供たちが寄ってきてくれ、ユウコユウコ!元気?これ食べてきな!飲んできな!と声を掛けてくれて、とても嬉しい。

 

  • 村の住民たちの行っていること、彼らの気持ちがより理解できるようになった。

アテは懲りずに、私に対して丁寧に何度も翻訳してくれる。私のワライワライ語は日常会話では機能するものの、仕事の話、おばちゃんたちが本音を早口で話し出したときは、ほとんど会話にならない。フィリピン人の多くは英語が非常に流暢だが、現地のおばちゃんたちは英語は理解できても話すのが苦手。アテは村出身で、英語がとても得意なわけではないが、「わたしの英語へたくそでごめんね」と言いながら、私の”理解できません”顔を見ると一生懸命訳してくれて涙がでそうである。また、彼女はおばちゃんたちと距離が近くコミュニケーションをとるのが得意。その理由として、彼女自身が村出身かつ女性組合組合長を兼任していること、さらには彼女自身が11人兄弟のど真ん中であり体裁が得意分野だからとの背景がある。

 

  • 私の心の支えができた。

真剣に活動のことを考えてくれ、私の活動の悩みを聞いてくれる。一緒に、自分の頭で考えて、悩んで、解決策を提示してくれる。そもそも「考える」という習慣を持たないフィリピン人は、特に農村部で多いように見えるため、村出身の彼女のそんな態度は驚きと感動だった。アテが私に頻繁に言う言葉は、「ユウコは結婚せずに仕事と勉強とやりたいことをやっていて本当に素敵だね!まだ若いんだから色んな所に旅をして経験するべきだし、ユウコのDecisionは間違っていないよ!」である。泣けてくる。今まで任地でよく言われたこと、旅行いけてお金持ちだよね、なんで結婚しないの?等とは正反対だ。そんな風に私に話す、任地バセイの人には誰一人出会ったことがなかったし、同時に、このような環境で育ってなぜこんなにリベラルな視点を持っていられるのだろう?とずっと疑問に思っていた。

 

 

そして先週のある日に、アテとランチをしていたとき。

アテが大盛の白米に少しの塩辛を乗せてご飯を食べようとした際に、「これは私の大好きなおかずだよ!食べる?私は幼いときとっても貧しかったからね、こうやって毎日三食塩辛ごはん食べてたんだよ、食事食べれないこともあったけどね。」と目をうるうるさせながら話始めたのが発端で、気づけば2時間話しており、ここで、初めて彼女の育った背景を知ることになった。

 

アテは、私の任地サマール島の隣、レイテ島の山間部出身。(アクセスの悪さから一般的に沿岸部より山間部のほうが所得が低い。)父は昼は農業、夜はモーターバイクの運転手(フィリピンでの最も一般的な交通手段はモーターバイクである)、母は専業主婦。兄弟は11人の6番目に生まれた。カトリックのゴムなしセックスのために、毎年の子供が生まれて11人である。アテは「She loves making childrenだからねあはは、だから貧しくなるのも当然よね」と笑っていた。もちろん11人を農夫のパパだけで賄うのは苦しく、白米に塩辛の食事は常、白米に水に浸し塩をかけて食べることも多かった。冷おかゆ的なかんじだろうか。ご飯を食べられなくてお腹が空きすぎて泣いていたことも未だに覚えていると言う。(※前にも述べたと思うが、フィリピンの農村部では一日三食、おかずに肉や魚を食べれたら贅沢、野菜が基本、お金が無いときは塩辛と大量の白米でお腹を満たすのが常である。白米はフィリピン人の命、米がなかったらまじでやばい、というふうである。)彼女の思い出す幼い頃の強い記憶は、自分のパンツを買ってもらえなかったこと(パンツは贅沢、直接ズボンを穿いたらOK)、貰い物の靴下が片方しかなく、かつかかとに大きい穴が開いていたけど、毎日帰宅後自分で洗濯して毎日履いてたこと、唯一持つ一着の制服にも大きい穴が開いていたこと、だという。それでも、「子供が多いのは問題だったけど、パパママが私達をお世話してくれたから恨めないし心から感謝しているよ」なのである。

中・高校生になったアテは、厳しい生活の経験と親を支えたい気持ちが強く、自分で小銭稼ぎを始める。コミュニケーションが得意なアテなので、隣人宅やおかず屋さん、学校の図書館に顔を何度も出し覚えてもらい、「お皿洗い・洗濯を代わりにやらせてもらえませんか?」「図書館の掃き掃除とか本の整理は誰がやっているの?」というふうに仕事を探し、一日30ペソ(約60円)ほどを稼いた。稼いだお金は親や弟妹たちに渡していた。

高校を卒業したアテは、”勉強することが将来の生活の支えになる、大学を卒業したい!”という強い意志があったものの、金銭面厳しく断念。首都マニラにてベビーシッターの仕事に就く。それでも大学に行きたかったので、雇用主に働きながらナイトスクールに通わせてほしいと依頼するが、1年待つように説得される。1年後に再度交渉をするものの、雇用主夫婦の浮気問題のごたごたで解雇されてしまう。

実家に戻ったアテは、たまたま、1年19ペソ(約40円)で通える3年の漁業専門短大を発見。そもそも大学では、年何十回渡る”プロジェクト”と呼ばれるコース受講の際に毎コース支払いが必要である。農業漁業系学部はこの”プロジェクト”がないため、一般的に、大学のコース選びの際に、農村部の学生たちに選ばれやすい学科である。アテは先生になる夢があったものの学費高く、大学就学・卒業の目標を優先しこの漁業専門短大に入学。中高時と同じように得意のコネ作りで自分の力で小銭収入口を探し、昼休みにはおかず屋さんで皿洗い、午後の授業後には図書館で掃除・図書整理を行い、毎日65ペソ(約130円)を稼いだ。お昼はおかず屋さんでまかないを貰い、自分の学費と交通費は自分のお金から、残りは同じように家族に渡した。両親は一生懸命で働きものはアテを何回も褒め、ご近所には「この子がうちの娘でね、家族をいつも助けてくれる優しい子なんだよ!」と嬉しそうに自慢していたという。アテは両親にも、「私が稼いでパパママの家を建ててあげるからね!」と約束した。彼女たちが住んでいた家は、葉っぱを乾燥させたものを編んでできた、小さなほったてネイティブハウスだったからだ。そして、アテは無事短大を卒業。ちなみに兄弟11人中大学・短大を卒業できたのは3人のみ、残り8人はマニラでの出稼ぎや、すぐ結婚をした。

大学を卒業後20代前半で、彼女は瞬く間に恋に落ちてしまい、そのまま結婚をした。旦那はサマール島の私の任地の村出身で、彼女はサマール島に引っ越すことになる。(ちなみに旦那は現在村長を務め、任地でわたしにかなり良くしてくれるとっても優しい人だ。)結婚後すぐ妊娠し、仕事には就かなかった。初めの夫婦生活は喧嘩も多く、生活も厳しく、身体も心も大変だった。食べ物に困ったことも多く、今より半分のサイズくらいガリガリになってしまい、隣人にお米だけお願いして貰ったことも多かった。すれ違いの住人に、「あの子大学出てるのに仕事もしないで食べるものも無くてあんなにガリガリなんだってよ~」と聞こえる裏口を言われたこともある。悔しくてたまらなかったけど我慢した。大学を出たのにすぐ結婚してしまったこと、親に家を作ると約束したのに果たせなかったこと、を何度も後悔して、今でもベストな選択をしたのか悩むことが多いという。

そして結婚して何十年経った今、夫婦仲も問題なく、2児の子供がいる。実は元々3児おり、第一子は小学校の時にデング熱で亡くしている(娘が生きていたら今頃高校生なのよ、と寂しそうに話していた)。

数年前に水産省で非正規で働いていた際は、隣人に、「あなたは水産省か・ら・、仕事もらっただけだよね」と言われ「違うよ、わ・た・しが、仕事を見つけたんだよ」と言い返す強さもある。水産省の仕事は安定していたものの、村からやや遠く子供も幼いこと、より地域に貢献したいとの気持ちから仕事を辞め、村の自治会員になる。村からの信頼も厚い。

親の家は、アテの兄が代わりに建てた。アテは現在農業課非正規雇用でもらっている月3,000ペソ(約6000円)のうち、500~1000ペソを毎月両親に渡している。

びっくりするほど意識の高いアテ。多兄弟で生活が厳しかったことから、子供は2~3人まで、と夫婦で話し合って決めている。カトリックのフィリピンでは、今でも人口はピラミッド型、東南アジアのなかでも有数の(旧CPの言葉を借りると)ベイビーファクトリーであり、2017年の国民平均年齢は23.5歳、2019年の合計特殊出生率(女性一人当たりの出生)は2.5人、私の周りの農村部住民では8~10人越えは普通である。アテは避妊ピルも使っている。フィリピンではピルがタダで処方してもらえるが、農村部でピル使用はなかなか聞かない。(※日本でもタダになるべきだしもっと皆使用するべきと思う。)中学生の娘にも早すぎるセックスは将来の可能性を狭めてしまうこと、レイプなどに要気を付けること、しっかり性教育を行っている。もちろんカトリックのフィリピンの親たちはなかなかやらないことだ。今の子供たちは学校をさぼりがちの子が多いが、勉強がどれだけ助けになるかもよく話すらしい。

今の仕事は非正規雇用だが、子供の成長に伴って金銭サポートがより必要なので、現在、役所に正規雇用のアプライをしている。「どうにかちゃんとした収入を自分の手で稼げるよう、非正規で(毎日オフィスに行く必要がないとしても)毎日一生懸命働いて、その姿を見てもらって採用してもらいたいし、地域にも貢献したい。毎日しっかり働いて、毎日神様にお祈りしてるよ。」と言っていた。

と、話し終わってからアテは泣いてしまったのだけど。この壮絶な葛藤の人生を、一生懸命話してくれたことが嬉しかったし、わたしもガチ泣きしそうになった。

フィリピン人、東南アジア人、ラテン人はもーっとEasy Goingなのが常だが、彼女の一生懸命さと保守的でない考えはここから来て、だから私の人生の歩み方を応援してくれるんだ、と分かったのである。

保守コミュニティでの、女性であること、卒業=結婚、結婚=妊娠、妊娠=専業主婦であることに価値が置かれることの怖さも見えた。

 

と、アテに人生の学びを得たのでした。彼女のためにも、彼女に胸を張って自慢してあげられるようにも、私も一生懸命強く生きないといけないと胸を打たれた先週。

 

皆さんにも、海越えて離れたフィリピンの、ローカルの、とある大好きなの人の人生について、少し知ってもらえたら嬉しいです。

 

 

f:id:mangoparadise:20200303191304j:plain

 

以上。

人の国の食べ物を食べることと、自分の国の食べ物を食べてもらうことについて

今日は食べ物と人の感情の話。

 

去年、任地バセイ町に住み始めた時、日本のことを知ってもらいたくて、日本の食べ物だよ!と何回かラーメンやきそばお好み焼き餃子など振舞ったことがある。実際のところ、皆の反応は毎回まあまあ・いまいちな感じだった。唯一とても気に入ってくれたのは、日本含め国外のことに興味があり、頻度高く外食でき、他国の食事を試すことのできるメイヤー娘と、日本に言ったことがあるそのお母さん(現メイヤー)だった。そりゃ試したことのない食べ物と、見たことない色、嗅いだことのない匂いなので、抵抗感と食が進まない感覚は理解でき、農村部の彼らの食に対する受け身姿勢と知らないものへの怖さ/興味の低さには納得となるほど、そんな学びをした。

その頃私は、ラーメンとか抹茶とか寿司とか、他国の人も知っているものだと勝手に思い込んでいたのだが、「日本食ってなに?」と皆が?だったので、なんで勝手な誤解!と反省した。日本食は美味しくて有名、とアホで天狗で自分勝手な考えをしていたなとその時分かった。

 

そして今日、私が通うジムにてボルダリングした後、みんなにラーメンを振舞った。ジム友達たちに本物のラーメンが食べたい!と言われたので、一時帰国した際にラ王豚骨5袋セット(ただの即席だけれど)とついでに日本酒やら梅酒を買って帰った。本来のラーメンの具はないので、使ったのは小松菜と細ネギとソーセージだけ。どうなるか自分でも疑問だったが、できたよ!と振舞うと、皆たかるように集まり、とっても喜んで食べてくれた。日本食をお代わりするピノイを実は初めて見た!この姿を見て、なんだか私は本当に嬉しくて嬉しくて、とてもハッピーで幸せな気分になった。醤油をかけたり唐辛子かけたり、白米のおかずとして食べたり、パンを浸してみたりピノイ流に色々だったが、好いてくれたようだった。

 

ここから分かるのは、まず1つ、先ほども言った街と農村部の人の食への興味の差。肌で、目で、感じることが出来た。

 

2つ目、振舞った食事を受け入れてくれる・好いてくれるもしくは興味を持ってもらえることが、どれだけ人の心を嬉しくさせ、壁をとって心を開きたいと思うかに繋がるか、を自分の感情の変化を通して強く考えさせられた。

例えば逆の立場の場合、私達のプロジェクトの受益者であるバセイのおばちゃんたちが私にご飯を振舞ってくれるとき。午前中おばちゃんにインタビューに行き、お昼になると、毎回朝釣りたての魚の揚げ物と焼き魚、白米、海ブドウと、こっそりトゥバというココナッツワインを出してくれる。この村のごはんがまじでとっても美味しいので、私はどの同僚よりもどのおばちゃんよりもバクバク食べる。うわあこれ美味しい、うわあこれも美味しい、と毎回食べまくってるうちに、いつのまにかこの村のおばちゃん達とぐっと仲良くなれていた。この時は、一緒に飲んだし心開いてくれてよかった!くらいにしか捉えていなかったが、おばちゃんたちが私を受け入れてくれたのは、彼らの食事を受け入れて好きになっておかわりして食べた私を通して、私に受け入れてもらえたことに対して、思っていた以上に結構ハッピーになってくれたのでは。

 

3つ目、食べ物とは、人が生きるなかで根幹のトピックになっているようで、なぜだか分からないけれど、「人」を受け入れてもらう・受け入れることにも繋がってくる。モノや服とかよりもそんな力が強いと思う。興味深い。

 

4つ目に。

フィリピンに来る前からも含めた農村部での様々な経験を通して、私個人的には、食べ物たべろたべろ攻撃は全然好きじゃないし、自分の好みの食事と分量を選びたい、食べる側気持ちが大事、という強い考えがあった。でも、今回のラーメンストーリーを通して、食べてもらえる側の幸福感、という新しい側面の感覚を知ることができた。

そこで、世界の田舎のたべろたべろ攻撃のことを考えてみる。美味しい食べ物が余るほど沢山あるとか、お客さんに対する歓迎のしきたりとかの側面は一度置いといて、もしかしてこれは彼らの受け入れてほしい攻撃なのかもしれない。心のどこかで、「(ここは街と離れているけど)僕たちは僕たちですよ!こんないいところなのよ!」っていう気持ちがあるのかな?一方で、「ここはいいところよね?」というのは、私が「日本食しってるでしょ?」という気持ちを持っていたのと同じような一方的な感覚に近いのかもしれない。つまり見えてる世界が狭いから起こってしまうことなのかも。

 

 

ところで、私は「食」への興味がめーーーーーちゃくちゃある(また他の回で話すかもしれない)。なので、今回食べ物がもたらす見えない大きい力を感じられ、またまた興味が深くなった。わたしの人生のなかで、一番大きなトピックとしてずっと付き合っていくテーマなんだと思った。

 

 

ちょっと今日は頭がこんがらがってうまくまとめられませんでした。ごめんなさい!

 

以上!

1年経ってやっとフィリピンが好きになってきた話

今年もよろしくお願いします。今日はだんだんフィリピンが好きになってきた話。

述べたように、住む場所を変え、普段関わるコミュニティ(田舎文化)と一定の距離を持って、プライベートの時間を作れるようになってから私の人生楽しくなってきました。

毎日いらいらポイントばっかりだけど、フィリピンの良いところが見えるようになりました。

私が特にフィリピンの良いところと思うのは3つ、「人と人との近さ≒馴れ馴れしさ」「子供、LGTBQ、障害者、ちょっと変わった人?への寛大さ・偏見の無さ」「底抜けの明るさ」。国自体は、システム・インフラなど色々酷いところが多いが、この国は「人」が財産であると思う。

 

 

①人と人との近さ≒馴れ馴れしさ

年末日本に帰国した。前回帰国した時は日本の良いところが沢山見えたが、今回はフィリピンの良いところが見えた。

帰国した際、周りの知らない人とのどうでもいい小話が恋しくなった。特に乗り物に乗る時、ものを買うとき。こちらの生活で、どの移動手段(ジプニー、モルティキャブ、トライシクル、ペディキャブ、タクシー、ボートどれも!)を使用する時でも運転手や乗客、知らない誰かと会話をする。ジプニーの行き先を確認する時、「〇〇行きよね?」「そうだよ、ここに住んでるの?」とか、どこ出身?あんたのママピノイ(フィリピン人)でしょ?なんで日本で稼げるのにここに来たの?ワライ語しゃべれんじゃんどこで勉強したの?とか。「あんたピノアメリカンだろ?ママはピノイか?パパはアメリカンなんだろ?」ととんでもない適当な意見を貰ったり、自分はムスリムで妻と駆け落ちしてここマニラに来たと真面目話をして仲良くなってチョコもらったり(お菓子くれるシリーズはフィリピンだけじゃなく起こるけど)、チャーターしたことある運転手のおっちゃんと再会して近況報告しあったり、、と皆遠慮や迷惑とかの概念がなく、話してくる。しかも爆笑ストーリーばかりである。最初は正直まじでうざかったのだが、一緒にいる時間が短い彼らとの時間は興味深いこと・ウケることが沢山ある。これも彼らとは毎日一緒に過ごさないし、ある程度の距離があるからいいのだと思う。

日本でこの無駄トークの懐かしさを抱いたまま、年始大阪に行ったのだが、大阪はその点でとてもハートのある場所だと思った。駅のクッキーお土産やさんで若いお姉さんとの会話、「美味しいもなか売ってる場所ありますか?」「あ~~それ1階なのよ改札でないとだめなのよ残念ねえ~」、私はがっかりしてお土産場所を散策しきんつばを発見、お姉さんのもとに戻り「お姉さんきんつばならどこがおすすめですか?」「そこならあそこよ!!!絶対そこ!!!白の小豆味が一番だよ!」と、きんつば購入後お礼を言いに行こうとすると、お姉さんわたしにまた駆け寄ってきて「よかったね!!めっちゃ美味しいよ!」と満面の笑みでグーサインをくれた。友達に話すような距離の近さがとても心地よかった。大阪人最高!!!と思った。でもその後新幹線乗り込み、名古屋で乗換時、「自由席ここですよね?」と近くにいたおばちゃんに聞いたら、「?!?!ここ自由席って書いてあるよね?!?!」と逆ギレされて、お姉さんが温めてくれた心は一気に冷めてしまったが。普通に教えてくれればいいのに。

また、家族の観点からみると、妻や旦那がいてもいなくても祖父母いとこ叔父叔母など大家族で住み続けるフィリピン人の生活は、プライベートなんてひとつもなく、引きこもりなんて出来るはずがなく、強制的に人と話す機会がもたらされる。隣人や知らない人も勝手に入ってくる。私がこのプライベート無し空間に入るのは耐えられないが、家族との距離感や強制的に会話をしなきゃならずコミュ障になれないことや、引きこもったり鬱になったりする空間が少ないことは、先進国が忘れてしまいそうな、非常に貴重で素敵なことだと思う。

 

②子供、LGTBQ、障害者、ちょっと変わった人への寛大さ・偏見の無さ

子育てヘルプの多さ。頭数の多い家族メンバー、隣人、友人、皆が親のように子供を世話したり怒ったり褒めたり目を見張ってくれる。オフィスやジム、どこにでも子供を連れていける。

フィリピンはカトリックのくせしてLGTBQに寛大で有名な国のひとつだが、至る所に女装した男の子が歩いているし、任地の地方空港のトイレには、LGTBQトイレがあり、理解の進み具合の日本とのギャップに驚愕した。

近親婚が多いから?か障害を持つひとはよく目につくが、そんな人達への偏見もない。

以前、現地の窓なし小型バス(モルティキャブ)に乗っていた時、明らかにおかしいおばあちゃん、バスの中で運転手の代わりに「〇〇行きだよ!のりなのりな!!」と叫びまくってる、明らかに運転手兄ちゃんと知り合いではないおばあちゃんがいた。日本なら皆眉にしわを寄せ無言もしくはそのバスは避けるというところだが、ここではバスの乗客みな目を合わせてクスクス笑いだし(しかもバカにする感じじゃなくて楽しんでいる)、おばあちゃんの正面に座っていたお兄さんは「おばあちゃん何歳なの?どこに住んでるの?」とインタビューしまくり乗客皆で爆笑するという、小喜劇が繰り広げられた。私も向かいのおねえさんとめっちゃ笑った。運転手にいちゃんはやれやれ客集めの仕事が減ったぜ、というかんじだった。

フィリピンにもしょうもない酔っ払いじじいはいっぱいいるが、日本なら絶対無視されるおじさんにも、皆、あーこのおっさんおもろい!っていうスタイルで一緒にげらげら笑っている。

軽蔑や馬鹿にする態度の無く、こんな環境も楽しむスタイルにびっくりした。

 

 

③底抜けの明るさ

最近の話。前記事にも書いた台風Ursulaの後、1月に受益者のおばちゃんのもとに行った。「台風大丈夫だった?」と聞くと、「水浸しだったわよ~、クリスマスイブに台風来たからパーティーがおじゃんになっちゃったし。ちょっとSad and Boring Christmasだったかな」。ちなみにカトリックピノイにとってクリスマスは一年で一番大きいお祭りで、12月にはだいたいクリパを3回ほど(家族1回、村単位で1回、オフィスか組合単位で1回)やるし、なんなら1月にもクリパする。するとおばちゃんたち、「だから今年のクリスマスはMerry Christmasじゃなくて、Merry Bagyo(=現地語で台風)だわ!!!あはははははは(大爆笑)」・・・いやいやMerry Bagyoってこんな被害なのに不謹慎すぎだろ!と思ったが、このおばちゃんたちの明るさに腰が抜けた。

 

 

派遣最初の一年はフィリピン人くっそー!と毎日イライラポイントと出会って(今でもイライラはたくさんあるが)、「人」がこの国の強みだ、と言える日が来るなんて思っていなかった。ほんとびっくりである。

 

 

今回は以上!!

 

クリスマスの大型台風にて任地が被害にあった話(写真有り)

昨年2019年12月24日、クリスマスイブに、台風29号(現地名Ursula)がフィリピンに上陸し、大きな被害をもたらした。私の派遣自体、2013年の超大型台風ヨランダ(一夜に8,000人ほど亡くなっている)からの復興事業と関係が深いが、その台風と同じルートを通って上陸した。フィリピンの国土は日本の0.8倍なので、上陸しても被害の無いエリアもあり大きいエリアもある。私の任地は、6年前の台風より被害は小さいものの、山のココナツ木たちは抜け落ちぶっ飛び、トタンの家は骨だけ残り、ボートや葉を編んでつくったネイティブハウス・冷蔵庫などもぶっ飛んだ。停電も1週間ほどあった。高波は2~3メートル。私の部屋も一部水浸しになった。

 

考えること①

幸いにも私はその時シキホール島という離れた島にホリデーしていたので被害に合わずに済んだが、なんてPrivilegeな生活なのかと思う。雨季に電気がないのは耐えられるものの、電波が泊まって誰とも連絡取れない状態だったので、もし私がホリデーしていなかったら頭狂っていたと思う。

考えること②

こちらに住んでいると、自然災害がもたらす被害の大きさに驚愕する。そして悲しいことにいつも死ぬのは低所得層である。とばされた掘っ立て小屋をまた同じ場所に立て直す。

考えること③

日本の暮らしより一段ステップバックした生活をしていると、自然の変化に敏感になる。台風はでかいし、Uターンするし、火山は噴火するし、世界に今起こっているおかしいことが、肌でこれはやばいと分かる。グレダちゃんには超感謝だが、まじでどうにかしないとやばいレベルになっているんだと思う。

 

 

以下添付写真は、私たちのプロジェクトの受益者たちが住んでいる、任地バセイ町の沿岸沿いのふたつの村で、フィリピンに戻った後1月8日(台風から2週間後)に撮影したものである。そのひとつが、バセイ町の中でも最も被害が大きかったTinaogan村。

 

f:id:mangoparadise:20200116223017j:plain

f:id:mangoparadise:20200116223116j:plain

f:id:mangoparadise:20200116223139j:plain

f:id:mangoparadise:20200116223154j:plain

ぶっ飛んだ冷蔵庫。

f:id:mangoparadise:20200116223202j:plain

 

活動について(続編)

復習、私の要請:「バセイ女性組合の食品加工を通した所得向上」

 

 

昨日に続いて、JICAから寄贈された食品加工所が5年経った今もなかなか稼働しないのか書きます。少しでも多くの人に、遠くフィリピンの田舎で、日本とフィリピンがどう繋がっているのか知ってもらって考えてもらえればと思います。

 

まず、2014年~緊急復興プロジェクトのそもそもの構想はこう。

現地語でBangus、英名Milkfishは、フィリピンの国魚であり、一日の三食いつでもよく食される国民魚、そして高級魚でもある。本プロジェクトの中心となる。

LGU(Local Goverment Unit)とはここではバセイ町役場を指す。

 

f:id:mangoparadise:20191122173126p:plain

 

 

 

これが現在は・・・

JICAから町役場に寄贈された40ケージのうち30ケージが、JICAの承認のもとLGUからタクロバン市場を牛耳る鮮魚卸業者へ貸出された。この背景には、2014年当時に役場農業課漁業チーム長が地元の漁師さんから信頼を得られておらず、漁師さんたちがケージを使用しなかった+日本から貰ったものが使用されていない事実によるLGU側が感じたプレッシャー、がある。

 

f:id:mangoparadise:20191122173418p:plain

 

卸業者はもちろん漁業そしてビジネスのプロであるので、養殖ケージは稼働するようになり、業者による漁師の雇用の創出を産んだ。一方で、バングス(Bangus)のほとんどはタクロバンに流れ、加工所のおばちゃん達は結局、タクロバンにわざわざ朝3時に出かけ、バセイの末端価格ではなく上乗せされた市場価格で魚を買う。本末転倒である。漁師のおっちゃんたちは、台風前は自力で竹ケージを作り魚の養殖、バセイに鮮魚を流していたものの、今はほとんどが雇われ労働者となった。

これが現在のサイクルである。この、加工所x女性組合の部分をなんとかできない?というのがボランティアの私がいる理由ですね。

 

この背景と、1年かけてフィールド調査分析し、挙げられる問題。

 

①女性組合は組合に対してそもそもあまり期待をしていない。

そもそも女性組合自体は台風後に結成されたグループで、自治体とは違い、コミュニティにとって全く新しい概念。そう簡単には回らない。組合員おばちゃんたち、その旦那たちの生業は不安定、もちろん正規雇用なんてほとんどいない。アクティブなメンバーにとっては、組合の細々とした活動にも希望を見出さなければならないほど生活は不安定である、と言える。

 

②組合活動が組織としてうまく回らない。

  • 組合活動は、家事や子守・個人商店の仕事から優先順位が下がる。おばちゃんたちの家にお邪魔したりすると痛いほどわかる。
  • バセイにマーケットがない。

  低所得層の多いバセイで、(生鮮品にマージンののった)加工品販売は難しい。まじ売るの大変です。タクロバンに持っていく他ないがそこまで生産も安定しない。

  • 加工魚の需要がない。

  いくら骨が多くても鮮魚で食べるのが基本。加工魚需要は中~高所得層レベルのレストラン・マニラやセブの大都市のみ。

  • 給料をつくれない。

  利幅のあるマーケットが見つかっていないため利益でず、ほとんど無給ボランティア活動(ここ数か月に変化ありだが詳細のちほど)。

 

養殖場と加工所のつながりが薄い。

  加工所に立って海が見えるのは1/4のみ。

  • LGUとJICA側が卸業者に貸出てしまったこと。
  • おばちゃんたちが欲しい小型の魚がとれない。

  市場向きは大型のBangus(500gr/匹)が好まれ、養殖場では小型(300gr)がほぼとれない。

  • 漁業組合員、女性組合員自体、ほとんど夫婦でなく繋がりがない。

  旦那→奥さんの構想だったが、初期の夫婦メンバーから随分とメンバー入れ替えがあり、おばちゃんたちの旦那で漁業組合員なのはほとんど皆無。

 

④加工して付加価値がつきそうなものがほとんどない。

魚や野菜は生鮮状態から加工して食されることがメインなので厳しい。このエリアで安価で大量にとれるココナッツの加工を検討しているところ。

 

 

よってわたしがボランティアレベルで出来ることは、

魚に関して:より安価で小型のBangusを手に入れるルートをつくる。

魚以外の加工品に関して:食品だけでなくProfitableかつSaleableな商品をいくつか確立する。

と考えて今は毎日の活動をしているということです。

 

では次は、今後の展望・計画の詳細を書きます。

 

今日はここまで!

活動について

一年経ってやっとだけれど、私の活動について書きます。

 

まず始めに、簡単な毎日のスケジュール。

朝6時前に起床、7:15頃に役所の乗合バンに乗り、7:40バセイ町の村役場、農業課の職場に到着。役場職員は8:00~5:00の平日週5日が勤務日なので、基本的には同じように出勤。ここを拠点として受益者の住む村に週3~4回出かける。オフィスにいる際は、ワークショップ用の書類作成、JICA提出用の書類作成、その他調査、同僚とだべったりおやつを食べたり、余った時間は英語の勉強。お腹が減ったら各自ランチ、私は部署の隣にある小さいCanteenで毎食60~100円で安ウマランチ。フィールドに出ている際は村のもっと小さいCanteenでランチ。5:00には役所の乗合バンで帰宅、もしくはジムに向かう。

 

配属先の農業課は正規非正規含め約30人、農業課長、私のスーパーバイザーは小柄だが超優秀、私が超尊敬しているAgriculturistの女性。部署の部屋は小さく到底30人を収容できるサイズではないので、だいたいメンズはフィールドに出たりや外の溜まり場でうろうろorだべってしている。部署内基本備品は、壊れかけて効きが悪い&水漏れしてるエアコン1台、共有パソコン2台、デスクは7台、超弱いWifi1台、冷蔵庫1台がある。私のデスクはこのオフィス内にある。1/7のデスクを占有してしまって恐縮である。プロジェクト分野は漁業、米、コーン、クロップ(その他野菜)、家畜に分かれ、水牛・ヤギ・カモの育種場ももつ。フィリピン最貧島のサマールの産業は農業に支えられているため、特に米作、また沿岸沿いに位置するバセイは特に漁業に注力したプロジェクトをもつ。

f:id:mangoparadise:20191121175552j:plain農業課部署


f:id:mangoparadise:20191121175456j:plainわたしのデスク

f:id:mangoparadise:20191121175640j:plainたむろう同僚ガイズ

 

私が「コミュニティ開発」という分野でボランティアとしてやっている活動は、バセイ町内51村あるうち沿岸沿いの4村に対するもの。2013年に超大型台風ヨランダがバセイ、タクロバンにぶちあたり、たった一夜で約8000人が亡くなった。この緊急復興プロジェクトとしてJICAが現地の水産省傘下のBFARという政府機関と、バセイ町役所と協力して、バセイ沿岸部に魚の養殖ケージ40棟と食品加工場4つを寄贈した。そもそも養殖ケージでとれたミルクフィッシュという魚(フィリピンの国魚かつフィリピン人に非常に身近な魚)を加工所に持っていき加工、付加価値をつけて販売、という構想があった。しかし現状、養殖ケージは現在使用されているものの、食品加工所はほとんど使用されていない。JICA母体からとしての支援は終わったということで、私の前任者ボランティアが2017年半ば~2018年半ばまで一年間、私が2018年終わりから2020年終わりまでの2年間入り、加工所の部門のケアをボランティアが担うことになったという形である。なので要請は、要はODA投資のなかなか上手くいっていない部分を引継ぎ、稼働させることである。加工所は4つの女性組合(婦人会)に使用権利が与えられており、私は毎日このおばちゃん・お母さんたちのもとを訪れ、加工作業を見せてもらったり、一緒にマーケティングしたり、継続的な生産ができるようビジネスプランを考えたり、というようなことだ。私個人ボランティアとしては、施設の使用され方よりもおばちゃんたちにフォーカスして、魚の加工だけでなく、その他食品生産、モノの生産やその他収益になる活動も含め、継続的に、なるべくおばちゃんがハッピーになれるよう活動している。

 

フィリピン隊員は赴任後3ヵ月でPCM研修というのを受ける。Product Cycle Managementと言って、開発分野でよく使われる手法なのだがこれがなかなかいい。コミュニティ開発隊員は赴任前にもHow to PCMの研修を受ける。このPCMを通してボランティアは基本的な活動計画を立てて、数か月ごとにレビューと修正をしていく。私のアップデート前の活動計画は以下。

 

f:id:mangoparadise:20191121175303p:plain

 

もっと具体的な活動を言うと、

前半一年はフィールド調査、情報集め活動のために色んなところに歩きまくり(済)、後半1年は方向性をマーケティング活動を中心に進める予定だ。

前半1年なにをやっていたかというと、組合の細々とした加工活動や会議参加、農業課漁業チームや水産省傘下BFARの会議への参加、漁業ケージの視察、付加価値を付けられるようなポスターやラベルの作成、現在の数少ない顧客と会ったり、プロジェクトに関わるタクロバン市役所の関係者に協力をお願いしたり、組合員おばちゃん達へのインタビュー、ランダムに漁師のおじちゃんお兄ちゃんたちへのインタビュー、タクロバンやバセイの漁業卸業者、小売業者へのインタビュー、タクロバン市場を牛耳るキーパソンへのインタビューなどなど。インタビューを通して、おばちゃんに対しては、そもそも加工所や組合に期待することや生活状況、家族構成、生業、漁業組合との繋がり、漁師のおじちゃんに対しては契約状況、生活状況、よく採れる魚など、結構頑張って、75人と話しデータを集めることができた。マーケットの卸関係者には、仕事内容、流通魚や加工魚へのニーズなどを調査した。

これらの活動を通して、何が問題で、どのような組織がどのように絡んでいて、なにならできてなにはできないか、なにを優先するべきか、と情報を集めた。

そして一年経ち、やっと今後の細かい方向性が決まってきたという流れだ。

 

おばちゃんたちの加工所がなんでうまく利用されていないか、というのは頭が痛いくらい色んな問題が絡んでいるのだけど、この話は次回。

 

今日はここまで!

村のくらしと街のくらしについて

ご無沙汰しておりました。

2019年12月に任地に赴任してから、12~7月の約半年間は任地のバセイ町でホームステイ、その後~現在までタクロバン市のアパートで暮らしています。今回はこの田舎と街との暮らしの違いについて書きます。

バセイの職場ここ:

Google マップ

 

バセイ町でのホームステイ

フィリピンの中で最も貧しい島であるサマール島の入り口、人口55,000人と割と大きなMinincipalであるバセイ町の、メイヤー宅にホームステイをさせてもらっていました。ココナツの木で茂る小さい村のなかに、闘鶏用ニワトリ40羽、番犬7匹、ボディーガードのおにいちゃんたち5人くらい(?)に囲まれた敷地に、建物が3連ほどと広い庭があり、三階のバルコニーまである、ワイルドでローカルで温かい家。落ち着いて大きすぎなく、地元民に寄り添った入りやすい雰囲気で、農業組合のおじちゃんが相談に来たり、毎日初めて見る人が行き交っていた。よくあるこちらのメイヤーは頭おかしいほど家が大きかったりするし、同期によると隣町のメイヤーの家は人口の滝とウサギの楽園があるということだった(一人で寂しかったらしい)。もちろん途上国のメイヤーということでバセイメイヤーの彼もひと際置かれているのだが、住民と寄り添った姿勢が好まれ3年3期の9年満期満了をするほどだった。家には手伝いさん1人と7人の奨学生が一緒に暮らしており、メイヤーに通学費用サポートをもらう代わりに帰宅後はメイヤー宅の家事全般、洗濯・掃除・炊事・除草等を行っていた。

ここで私は箱入り娘のような暮らしをさせてもらっていた。というのも、地元民とどれだけ同等になろうと思っても、私は常にビジターになってしまう。家事全般は手伝うと怒られてしまうし、一人で移動は危険というのとビジターということで送迎付き、全てやってもらっていた。大学からずっと一人暮らししていた私にとって初めての経験だった。

平日のスケジュールは、朝6:30起き、7時みんなで朝ご飯、8時メイヤーカーで一緒に出勤、夕方5時メイヤーカーで一緒に帰宅、6:30時にみんなで夕食、10時に就寝というかんじで、夜はもちろん出かけられる場所がないので家に居た。週末はタクロバン街に行くために岸をまたぐパンボートに乗る。家からピアまでメイヤー何でも屋のお兄さんに送ってもらい、ボート15分で街の中心に向かう。帰りもボートの後はお兄さんにピアまで迎えにきてもらう。タクロバンに出ない場合はほぼ自宅に籠るのみ、みんなが心配するので日中も一人で歩くことができなかった。

ホームステイを経験して最も良かったことは、本当のローカル人の暮らしが分かったこと。何時に起きて、何を食べて、どう料理して、なにを買ってなにを収穫して、なにを話して、なにに困って、なにが人生の中で重要で、なにに時間を費やして、なにをお粗末にするか、どうお金を使うか、という草の根の感覚が死ぬほどわかった。しかも私の場合は、富裕層であるメイヤーファミリーズの感覚と、奨学生やお兄さんたちの感覚の違いが痛いほどわかった。これは私はフィリピンで活動をするにあたって最も希少価値の高い情報だった。

ホームステイで大変だったことは、コンサバ文化(前回も書いたが)、多様性の無さ(考え方、言葉の使い方、会話、活動範囲、出来る服装、外国人への扱い)。これらは単に所得によって生じる文化なのだけれど、私にはとても窮屈になることが多かった。

 

タクロバン一人暮らし生活

引越しをした理由は、バセイのローカル文化は十分に知ったと確信できたこと、自分の時間が作りたかったこと、自分で料理したかったこと、関わる人間の範囲を広げたかったこと。引っ越した今は、オーナーさんの敷地内に併設されている賃貸用建物の三階の一部屋を借りている。バルコニーから海が見え、朝は海風と教会の音楽で目が覚め、大通りのうるささはなく、部屋は小さいが清潔でエアコンミネラルウォーターホットシャワー冷蔵庫完備、オーナーさんの雇うメイドさんは共有スペースを一生懸命きれいにしてくれ、正直ホテルのようで本当に運が良かった。しかもオーナーさんがたまたまメイヤーの知り合いだったので色々ことが上手く進んだ。

一人暮らしを始めて人生が変わった。引っ越してからの暮らしに期待していたことは全て叶った。食べ物は私のパッションなので毎週料理が楽しい。最も変わったことは、やっと「友達」ができたこと。逆に言えば、バセイにいたときは感覚が同じ友達が誰一人いなかったが、引っ越してからフィリピン人・外国人ボランティアと、やっと、やっと友達といえる友達ができた。旅できることが増え、旅先でも新しい人と出会えるようになった。バセイでは、隣町に行ってくることさえも言いづらかった、ゆうこは金持ちだと思われるし、地元民と同等に対話したかったから。

最近ボルダリングジムに通い始めたのだが、衝撃の連続だった。今まで私はフィリピン人=バセイ人と思ってたが、それは間違っていたと知った。ジムで初対面の彼らが私にしてくる質問は、仕事の詳しい内容、なんでフィリピンに来たか、趣味、旅行、タイ料理のはなしやら、歴史、地質学のことなど教養のある質問ばかりで、私が何歳で彼氏がいるか、ではなかった。皆自分で物事をきめ、アジア文化のAttachyなかんじが全然なく、男女仲良く話す。一番衝撃的だったのは、レストランで注文する際にひとりの友達が一言目にAre you vagan?って聞いてきたことだった。私「え~~~?!ビーガン知ってるの!?!?」彼女「外国人の友達はだいたいビーガンだからさあ」私「ビーガンじゃないけど、肉は食べないようにしてるよ」彼女「ああペスカトリアンね」私「えええええええええええペスカトリアン知ってるの?!?!?」ってかんじで、そんな会話ができた友人は日本でも少数だったので超衝撃だった。ジムの子たちはもちろん筋肉質でスタイルが良く、メンテナンスが出来ているかんじ。フィリピン人なめすぎてたわと反省しました。

ある方に「ゆうこ隊員はシティーガールだよね、ダイバーシティが好きだから」と言われたことがあるのだが、その通りで色んな方向に足を延ばして回りを見渡していないと、私の場合は人生のいい風が吹かないのだなあと思った。

これも前も書いたが、任地でローカルと一番近くならなければいけないのは私なのに本当に皮肉だと思う。

 

というわけで、私の人生が前向きに一転し、昨年11月5日にフィリピンに来てから一年経ち、残り1年では、どこでなにをすれば良い波が立つのか、後ろ髪のない運の神様が通り過ぎないか、よく見ながら暮らしていきたいと思っている。